「50代から、もう一度“私”を始める。仕事も子育ても頑張ったマダムへ贈るエール」
結婚しても、私は“私”でいたかった
結婚してからも、私は「家庭に入る」という感覚がありませんでした。
というのも、私はもうすでに、自分の名前で仕事をしていたからです。
オルエローズという名前で、フラワーコーディネートの仕事を始めたのは、まだレストランウェディングが珍しかった時代。
今でこそ一般的になった「レストランを貸し切っての結婚式」ですが、当時はほとんど例がなかったんです。

その分、仕事は常にチャレンジの連続。
会場も決まった場所ではなく、軽井沢や地方のレストランに出向くこともしばしば。毎週のように新郎新婦と打ち合わせし、月曜日から仕入れと下準備、金曜日には徹夜で装花を仕上げて、土日は現場。
まさに走りっぱなしの毎日でした。
でも、それが楽しかった。
お花のこと、空間づくりのこと、新郎新婦の笑顔…全部が自分の“生きがい”だったんです。
「結婚したら家庭に入るもの」という価値観に馴染めなかった私は、結婚後も当然のようにこの仕事を続けていました。
むしろ、「これからもっと頑張ろう」と思っていたくらいです。
当時は、まだ“女性の起業”が珍しくて、周囲に理解されないことも多かったけれど、それでも私は「自分として生きていきたい」と、心のどこかで強く願っていました。
臨月でもレッスン、破水しても黙っていた私
そんな生活の中で、私は第一子を授かりました。
正直に言うと、仕事を休むという選択肢は、その時も頭にありませんでした。
妊娠が分かっても、脚立に登って装花をしていましたし、お腹が大きくなっても気づかれないことも多かったです。背が高かったことと、赤ちゃんが小さめだったこともあって、ただ「ちょっと太ったかな?」くらいにしか見えなかったんでしょうね。笑
そして、ある日。
いつも通り、生徒さんたちとレッスンをしていたとき、突然「ん?」と思う感覚がありました。そう、破水してしまったんです。

でも、その時も私は、誰にも言いませんでした。
「このレッスンが終わったら病院に行こう」
そう思いながら、最後まで普段通りにレッスンを続けました。
振り返ると、あの時の私は“プロ”としての意地と、どこかで「迷惑をかけたくない」という気持ちに支配されていたんだと思います。
妊婦である前に、仕事をする人間でありたい――そんな気持ちが強かったんですね。
そして、出産の日。
生まれたのは、2月1日。
帝王切開でした。
その後、すぐに復帰…とはさすがにいきませんでしたが、それでも私は「1日も早く仕事に戻らなきゃ」という気持ちでいっぱいでした。
周囲に頼ることが苦手だった私。
それでも、なんとかやっていくしかない。
この時期の私は、「母として」よりも、「生き延びる」という考えが強かったかも。
保育園探しと、週末の花かごと
産後、しばらくは実家にいたものの、私の心はすでに「現場」に戻っていました。
じっとしていられない性格もあるのですが、なにより、仕事は私の“軸”でもあったからです。
問題は、保育園。
早く復帰するためには、生後数十日で預ける必要がありました。
いろいろ調べた結果、なんと生後54日目から保育園に入れることが判明。2月生まれの我が子は、まさにギリギリのライン。作文や書類を必死に書いて、運良く入園が決まりました。
でも、そこからが本当のスタート。

当時、保育園は「月〜土」しか預かってくれませんでした。
私の仕事のメインは“土日”。日曜日には当然、式がある。
だから私は、
・ベビーシッターさんを自宅に呼ぶ
・車に花材と赤ちゃんを乗せて出発し、作業のあと実家に預ける
・週末の夜に、花と子どもを抱えて移動する
そんな日々が、当たり前のように続きました。
今のようにチャイルドシートが義務ではない時代。
私は花を詰めるかごに子どもを入れて、助手席に乗せ、花の香りの中で移動していました。
…まるでコントみたい わ
でも、それが現実だったんです。
第2子、そして2カ所への送り迎え
時は流れて、私は第2子を授かります。
夏の出産になることが分かっていたので、今度はあらかじめ帝王切開の日を選びました。
選んだ日は、8月10日。オルエローズの夏休み初日です。
こうして無事に出産し、ひとときの休息…と思いたいところですが、現実はそう甘くありませんでした。
下の子は8月生まれということで、すぐには保育園に入れず、「保育ママ」という制度を使いました。
自宅で子どもを少人数で預かってくれる方にお願いし、
上の子は通常の保育園、下の子は保育ママ…という2カ所への送り迎えが始まったんです。
その頃、私は週2回、町田の専門学校でも講師をしていました。
朝が早い。けれど、保育園は7時にならないと開かない。
だから、開園を車で“待ち伏せ”して、
扉が開くと同時に子どもを預け、猛スピードで町田へ向かう。

専門学校では花の授業。
帰宅すれば、家事、子育て、そしてまたレッスンの準備。
それが「働くママ」だった、私の日常です。
もちろん、余裕なんてなかったけれど、
「やるしかない」と毎日を走り抜けていました。
「遊ぶのが好きな母」でいいじゃない
ようやく、子どもたちが小学校に上がると、ぐんと生活が楽になりました。
自分で学校に行って、自分で帰ってくる。
しかも、学童保育というありがたいシステムまであって。
「やっと、少しは息がつけるかも」と思えた時期です。
でも私は、ここでまた全力投球。
仕事?いえ、遊びにです(笑)。
海、山、公園、温泉。夏休みは、毎日どこかへ出かけていました。(夏休みに結婚式はほとんどありません)
子どもが「ママ、海もいいけど、そろそろ宿題しよう?」と言ってくるくらい。
その頃、私の中に勉強という概念はゼロでした。

一方で、運動会には本気。
「絶対1位を取るんだよ!」と子どもに言い、犬を連れて河原で特訓したこともあります。
かけっこのフォームチェックに付き合い、走る距離を毎日伸ばして…。
塾より、今しかできない“親子の遊び”を優先していた私。
今思えば、「あの時、思いきり遊んでよかった」と心から思えます。
それも、子どもが笑って育ってくれた、大切な要素だったんじゃないかなと思うんです。
「この子に行ける学校はありません」と言われた日
そんなふうに、遊んで笑って育てていたわが子が、中学生になりました。
いよいよ高校受験の話が出始める頃、学校の先生から言われた一言は衝撃でした。
「お母さん、この子に行ける高校は…ないですね。
あえて言うなら、埼玉の工業高校くらいですかね」
え…?うちの子、そんなに?
のんびりしてるとは思っていたけれど、
まさか「行ける学校がない」とまで言われるとは思っておらず、ショックでした。

急いで塾に通わせたものの、全然合わない。
うまくいかず、すぐに辞めてしまいました。
そこで、藁にもすがる思いで家庭教師を依頼。
来てくださった先生が、これまたイケメンで(笑)。
どうやらそれがやる気のスイッチだったようで、
突然、本人が猛烈に勉強を始めたんです。
先生のカッコよさがきっかけでも、動機は何でもいい。
本人が変わることって、本当にあるんだなと実感しました。
結果、第一志望・第二志望ともに合格。
三つ目の受験は「もういいや」と辞めたくらい、満足な結果になりました。
誰にでも“再出発のタイミング”はやってくる
子育ても一段落して、仕事にもひと区切り。
ふとできた“自分の時間”に、戸惑う人は多いと思います。
「何かしたい。でも、今さら…」
「SNSって若い子がやることでしょ」
「デジタルとか苦手だし、何をどうすればいいのか分からない」
私も、最初はそう思っていました。
でも、思い出したんです。
私はかつて、
育児と家事と仕事を、ごちゃまぜにしながら走り抜けてきたことを。
「できない理由」なんて、いつだって山ほどありました。
でも、やってみたら、意外とどうにかなってきた。
あの頃より時間も体力も減ったけれど、
経験と人生の厚みは、あの頃よりずっと増えている。
だから私は、もう一度やってみようと思ったんです。
それが、長年いた田園調布から自由が丘に移転して今の仕事体制に挑戦を始めたんです。

そんな私のように、「これから何かを始めたい」と思っている方へ、
デジタルが苦手でも、発信が初めてでも、
“今”のあなたにちょうどいい学びの場所をつくりたいと思って、
私は【マダムのためのデジタルアカデミー】を始めました。

スマホ写真、Canvaでのデザイン、LINEの使い方、SNSの仕組み、
そして、あなた自身の想いや世界観を、しっかりとカタチにしていく方法。
全部、あなたのペースで学べるように設計しています。
「誰かのために一生懸命だった自分」から、
「これからは、自分のためにも動ける私」へ。
再出発は、大きなステップじゃなくて大丈夫。
今日、ほんの少しだけ、スマホの世界に触れてみること。
その一歩が、明日の景色を変えてくれるかもしれません。
あなたのこれまでの人生は、決して“遅咲き”なんかじゃない。
今こそ、“あなたらしく咲く”とき。
一緒に、次のステージに進んでみませんか?
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